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著:イリナ・グリゴレ 版元:亜紀書房 P256 四六判並製 2022年7月刊 装丁:寄藤文平+古屋郁美(文平銀座)
著者は、1984年に社会主義政権下のルーマニアに生まれ、混乱したポスト社会主義の中で少女時代を過ごした。その生年は1986年のチェルノブイリ原発事故にも影響を受けていることを示す。幼い頃、彼女は祖父母のいる村で暮らし、父母は町で労働者として暮らしていた。祖父母がつくった野菜を食べ、新鮮な牛乳をのみ、摘んだ野草を食べる。庭や畑や森を舞台に、記憶は映画の1シーンのように脳裏に刻まれている。言葉で表現されているのに、まるで見ているかのように読み手にも映像が浮かぶ。彼女の見る夢の話はさらに幻想的で、悲しく、美しく、恐ろしい。チェルノブイリの雲は彼女が遊んでいたカモミール畑まで来て、見えない暗い毒を浴びせた。その毒や、両親が独裁政治から受けた恐怖が、のちに彼女の身体を蝕む。「社会主義とは、宗教とアートと尊厳を社会から抜き取ったとき、人間の身体がどうやって生きていくのか、という実験だったとしか思えない」と彼女は言う。川端康成の「雪国」との出会いが彼女を日本へと向かわせ、人類学者となった現在も日本に暮らしているそうだ。母語ではない言葉で書くことによって、彼女は語るための言葉を獲得した。読後には、恐怖ではなく、結晶のような美しさが残る。